地域文化研究所

地芝居について

俄狂言と流し仁輪加

神田卓朗

(1)にわかの歴史・概要
 「にわか」は「にわか狂言」を略したもので、俄・仁輪加・仁和加・二○加・○○加などと書くが、いずれも当て字である。素人が思いつきで即興的に演じる滑稽な寸劇のことをいう。
 江戸時代中期の享保年間、大坂の夏祭りの時に、素人の男が「思い出した、にわかじゃ、思い出した、にわかじゃ」と、言いながら滑稽なパフォーマンスを演じたことが、安永年間の「古今俄選」に出ており、これが今のにわかの始まりと見られている。にわかは他の芸能と共に古くから祭りとの関係が深かったのである。恐らく初めの頃は、今も大阪にわかの露の五郎兵衛一門に伝わる一口にわかの「となりに坂の囲いができたなァ」「へェ(塀)」とか、「ハトがなんかかけていったでー」「ふーん(糞)」とか、「向こうからぼん(坊)さんが来るでー」「あ、そう(僧)」とか、「この薬の瓶、もるぞー」「そこ(底)までは知らなんだ」という簡単な言葉遊びのようなものであっただろうと思われる。その後、江戸では同じ享保年間に吉原遊郭の祭りで「流しにわか」の形態の吉原にわかが流行し、当時の人気絵師・歌麿は、にわかを演じた芸者たちの姿を錦絵に残している。


 にわか発祥の地・大坂では、素人の流しにわかなどから、組や連中が組織され、達人の座敷芸から、本来の仕事のかたわら、にわか師として活躍する初期の頃のプロも登場し、やがて劇場や小屋がけ・寄席などで興業を行うようになる。享保の頃は、北の遊郭で半面というにわか師が活躍したほか、寛延には仲国仁兵衛がにわかを流行させ、明和・安永の頃には壁屋連休が座敷にわかを広め、天明・寛政の頃は、弁連や袖岡などが初めて劇場でにわかの興業をおこなった。天保元年には、大坂にわかの中興の祖と呼ばれる村上杜稜が出て、この時期に、にわかの形態がほぼ定まったと言われる。さらに弘化年間には、初めて江戸・日本橋駿河町の寄席で大坂のにわかが演じられ、大反響を呼んだ。この頃のにわかの演題は、「仮名手本忠蔵蔵」や「菅原伝授習鑑」、「安宅関勧進帳」などで、歌舞伎の外題の切り狂言として、見せ場をパロディー化して演じるものが中心であった。
 明治に入り、大坂にわかは新派や喜劇の発生に重要な役割を果たし、漫才などにも大きな影響を与えた。明治中期には、にわかの名人といわれた鶴屋団十郎と団九郎による「大坂二○加一座」をはじめ、「改良にわか」や「新聞にわか」の一座も登場し、新しいにわかが人気を集めた。明治も後期になると、大坂にわかの中から、曽我廼家十郎・五郎が喜劇の劇団を結成し、明治・大正・昭和にかけて喜劇全盛時代を作り出した。この劇団は、その後の変遷の中で名称を変え、やがて松竹新喜劇となる。同劇団の前座長・藤山寛美(故人)は良く「喜劇の原点は、にわかやと思てます」と言っていたが、この言葉からも同劇団が大坂にわかの系譜にあることが分かる。にわかは少なくとも江戸の後期から明治の後期にかけて、全国的に大ブレークした当時としてはメジャーな芸能であった。


(2)美濃にわかの歴史と演題
 美濃にわかは、毎年4月の美濃まつりの夜、地元の若者たちが各町ごとに、松の枝に取りつけた赤い提灯のにわか車を曳いて、お囃子を奏でながら町の中を流して歩き、町の辻々でにわかを演じることから、正しくは「美濃流しにわか」という。この形態は、明和・天明期(1764年-1789年)に吉原遊郭で流行した「流しにわか」がルーツである。
 にわかが美濃まつりに登場するようになったのは、江戸時代の末期と見られている。万延・元治(1860-1865年)の頃、上有知(こうずち)の美濃和紙商人・篠田和兵衛が商用で大坂に出かけた折りに、当時の大坂で盛んだった「にわか」を見たのがきっかけで、美濃に戻ってから宴席で座興に「にわか」を披露し、町内に伝えたと言われる。この「にわか」が旧美濃町16町に広がり、当時の若者の組織である若衆連が美濃まつりの楽しみに演じるようになり、やがて祭りの夜の定番となっていった。
 上有知の美濃にわかは、当初は祭りの時に「所望!」という声に応えて、声をかけた家の土間で演じられ、若衆連の若者たちにとって、出された酒や祝儀が楽しみであった。その後、各町内ににわか上手が現れ、「所望にわか」から辻々で演じる「辻にわか」となり、やがて、各町内の決まった場所で演じる今日の美濃にわかの姿が完成した。
 現在美濃流しにわかは、各町ごとの演題(テーマ)について、役者の数人が地元の美濃町弁でかけ合い、言葉遊びをしながら社会風刺をしたりして、最後に落語のような「落ち(落とし)」をつけて、会場を笑いに包んで終わる。2008年4月の美濃まつりで見られたにわかの演題は、「地球温暖化の影響」や「赤福問題」「角界の救世主」「ドタバタ大食い選手権」「行列ができる職業相談所」「ギョーザ問題と北京オリンピック」など、いずれも世相を風刺したテーマのものが圧倒的に多い。 
 美濃にわかの所要時間は、平均7~10分ほどだが、中には1分たらずで終わる一口にわかもある。このように現在の美濃にわかは、今の社会の出来事をテーマに取り上げるのが主流である。しかし、昭和20年代・30年代までの古い時代の美濃にわかの演題は、昔ながらの歌舞伎や新派もの、大衆演劇の出し物のパロディーなどが中心であった。美濃市にわか連盟の初代会長で、戦後の美濃にわかの復興に力を尽くした加藤卯造さん(93才=2008年9月現在)は、次のように話している。
 「慶応生まれの父が祭り好きで、にわかも良くやっていたので、私も小さい頃から親父の影響を受けました。父に聞いた話では、慶応から明治にかけて素人歌舞伎が流行っていたので、にわかも歌舞伎ネタが多かったようです。にわかでは、歌舞伎のさわりの部分をパロディーにしていました。その頃、美濃まつりの初日は、その時々に流行っている形のにわか、2日間の本楽は歌舞伎ネタのにわかをやっていました。大正から昭和と時代が進むにつれて、にわかも少しずつ形が変わってきましたが、戦前までは歌舞伎ものも良く演じたものです。昔やっていた歌舞伎ネタとしては、例えば『仮名手本忠臣蔵』とか『壺坂霊験記』とか『勧進帳』なんかがありました。私が小学生だった1924年~1925年頃、当時の岐阜まつりの日に、岐阜市矢島町に住む叔父の家に遊びに行きました。この時、叔父の家の近所にあった畳屋さんの家で、町の若い衆が『安宅の関』のにわかを演じましたが、富樫とあんまのやりとりが強く印象に残っています。」
 このように、江戸時代後期から明治にかけての歌舞伎の隆盛と美濃にわかの演じる内容は、密接な関係にあり、大衆にもてはやされた歌舞伎の一部が、にわか芝居として素人の間に広がり楽しまれるようになった。しかし、特に戦後になると演劇・芸能も多様化し、歌舞伎がかつてのような人気や大衆性を失い、元の歌舞伎を知らない人たちが増えた結果、歌舞伎のパロディーにわかの面白さが理解できないようになり、世相を風刺するような内容のにわかにとって変わられたのは、時代の自然な流れであった。


(3)下呂市の地芝居とにわか芝居
 下呂市の白雲座や鳳凰座の地芝居については、堀池哲夫さんの調査報告に譲り、ここでは、にわかと地芝居の関係について触れたいと思う。
 かつて岐阜県内で、「にわか」と呼ばれていた芸能は、美濃流しにわかを含め、わかっているだけでも20ヶ所で演じられていた。岐阜県内でかつて見られた「にわか」の形態は、①一口にわか(岐阜市・羽島市・美濃市・高山市・同市清見・同市丹生川・同市宮) ②流しにわか(金山町・北方町・美濃市) ③にわか芝居(大垣市ほか後述) ④地芝居(下呂市) ⑤仮装行列(練りもの=垂井町・同町栗原・神戸町・神岡町) ⑥踊り(大垣市・神戸町) ⑦不明(上石津町・美濃加茂市)などに分かれていた。
 このうち「にわか芝居」は、歌舞伎の見せ場を演じる切り狂言や、新派、新国劇などの芝居のさわりの部分をパロディー化したもので、かつては、大垣市、海津市南濃町・郡上市和良・関市洞戸・高山市丹生川および上宝・飛騨市古川町などで見られた。
 ちなみに、大正から昭和(主に戦前)にかけて、飛騨地方を中心に見られた県内のにわか芝居の演題は、「仮名手本忠臣蔵」「菅原伝授手習艦」「安宅関勧進帳」「壺坂霊験記」「白浪五人男」「義経千本桜」「千代萩」「朝顔日記」「太功記十段目」「阿波の鳴門」「一の谷ふたば軍記」「安達ヶ原三段目」「曽我兄弟」「鎌倉三代記」「滝の白糸」「瞼の母」「国定忠治」などであった。
 例えば、昭和3年に関市洞戸(旧武儀郡洞戸村)の若連中が演じたにわか芝居「忠蔵蔵四代目、塩谷判官切腹の場」の台詞のやりとりは、次のようなものであった。
 大星由良之助が来るのを待ちかねる白装束の判官がたずねる「由良之助はまだか?」 控えの者「いまだ参上つかまつりませぬ」判官「もはやこれまでじゃ。例のものを持て!」 控えの者「ははー!」と答え、鉢に盛ったうどんを持って来る 判官「せめて今生の名残に」とうどんを一口食べたあと切腹して果てる。やがて花道よりあたふたとその場に駆けつけた由良之助が叫ぶ「残念なり。一箸(ひとはし=一足)遅かったァー!」で幕となる。
  
 このようなにわか芝居の元となった地芝居・地歌舞伎は、現在も東濃地方を中心に岐阜県内各地で盛んに行われているが、その中で下呂市の白雲座や鳳凰座でも、毎年地元保存会の人たちによる地芝居の熱演が繰り広げられている。平成12年(2000年)、下呂市(益田郡下呂町)森在住で、鳳凰座の世話役など長年にわたり下呂の地芝居を支えてきた故・野中幸一さん(当時94才)から、下呂の地芝居について聞き取り調査を行った時の内容は、下記の通りである。
 「私が小学校高学年だった大正6年(1917年)ごろ、森や小川、湯の島などの各地区には、それぞれ今の白雲座のような芝居小屋がありました。当時は毎年秋になると、各地区の青年団のメンバーが、女性も参加していましたが、歌舞伎に詳しい人から指導を受け、それぞれの地区の芝居小屋で地芝居を演じて人気を集めていたものです。時には白雲座や鳳凰座で演じることもありました。それぞれの芝居小屋では、年に1~2回しか公演がなくて、建物の維持費もかかったので、地芝居に参加(演出)できるのは余裕のある家庭の青年が中心でした。芝居の当日、見物客が木戸に座っている人に祝儀を渡すと、その見物客の名前を書いた半紙が、場内の天井から下げられ、芝居の途中でおひねりが飛ぶのも楽しい光景でした。こういう地歌舞伎のことを、地元下呂の人たちは戦前まで『にわか』と呼んでいました。やがて各地区の芝居小屋も徐々に姿をけして行き、今では白雲座と鳳凰座しか残っていません。戦後、地元の熱心な同好の人たちが中心となって、2つの芝居小屋での地歌舞伎が復活され、上演されるようになりましたが、いまでは、『にわか』とは呼ばず、地芝居とか地歌舞伎と言っています。」
 野中さんの話によって、下呂では戦前まで地芝居のことを「にわか」と呼んでいたことが明らかになったが、なぜ地芝居のことを「にわか」と呼んでいたかについて、野中さんは「分からない」という答えだった。
 地芝居を「にわか」と言っていた理由については、時代は遡るが江戸時代後期に見られた歌舞伎の隆盛と同時代の経済的苦境が背景にあるのではないかと考えられる。歌舞伎が大流行した当時は、岐阜県内各地でも祭礼の時には必ずと言って良いほど、地芝居や人形浄瑠璃が演じられ、庶民の間では大変人気があった。このころ「にわか」や「にわか狂言」「にわか踊り」「子供にわか踊り」なども広がりを見せた。その一方で江戸後期の天保年間(1830年~)は、大地震や風雨それに火災などによる災害と共に、大飢饉がピーク状態を迎え、打ちこわしが各地で発生、幕府は倹約令を発令した。こうした厳しい社会情勢の中で、稽古に1ヶ月前後を必要とする地芝居や人形浄瑠璃は、いずれも練習の時間や経費がかかるため、そのまま実施することをはばかった関係者たちが、実際は歌舞伎を演じながらも、その隠れ蓑・カモフラージュとして、「にわか」あるいは「にわか狂言」の呼称を使っていた可能性がある。その後、幕府は天保12年(1841年)に狂言・操り・相撲・歌舞伎・浄瑠璃の禁止令を出している。ちなみに、地芝居・地歌舞伎を「にわか」と呼んでいる実例を全国的に見ると、例えば福岡県甘木市で今も毎年行われている「盆にわか」がある。これは実態としては、地元の人たちが仮設の舞台で「白浪五人男」などの歌舞伎の演題を熱演する地芝居であるが、地元では古くから「盆にわか」と呼んでいる。