地域文化研究所

地芝居について

地歌舞伎の上演を支えた衣裳屋

小栗幸江


岐阜県内の地歌舞伎が現在まで存続してこれた要因は、いくつか考えられる。地域の祭りなどと合流したこと、比較的郡部の地域で守られてきたこと、芝居小屋や舞台などの上演場所があったこと、師匠という存在があったことなどがあげられるが、やはり、衣裳屋、かつら屋などという屋号を持った家族や集団の存在があり、歌舞伎衣裳がまとまった形で保存され続けてきたことが、大きな要因であるとおもわれる。ちなみに、岐阜県の地歌舞伎では、芝居の振り付け師匠が、衣裳の借入れ先を指定するのが通例となっていた。衣裳屋は主に、着付方、床山方、衣裳立て方を担当した。着付方は、芝居の当日に役者の着付けを行うが、いわゆる普通の着付けとは異なり、役者の動きを考えて行う。床山方は、かつらの結い直し及び芝居当日のかつらの着せ替えを行う。衣裳立て方は、芝居の外題が決まると役によって決まった衣裳を用意する。しかし衣裳屋本来の仕事は、芝居が終了した後にあり、汗にまみれ化粧で汚れた衣裳・かつらを一つ一つ汚れを落として保管していくなど大変な重労働である。特に刺繍の施された衣裳は、洗うことができないため特殊な方法がとられる。
キラ(綺羅)と呼ばれる衣裳について、他県の様子を見ると、そのほとんどが分散してしまっているのが現状である。いつでも、様々な演目が上演できるようにまとまった形で衣裳、かつら、小道具が保管され、しかも現在も活用されている例は、岐阜県以外にはあまり見られない。古くは江戸期から、明治・大正・昭和そして平成へと、衣裳やかつらは吾が子のように大切に守られ、補修されてきた。色使い、仕掛け、刺繍などはプロの歌舞伎衣裳部の目から見ても、その資料的価値は高い。衣裳屋の存在については、まだまだ調査不十分ではあるが、現在まで分かっているものをいくつかを紹介する。



瑞浪・山野内の衣裳屋(安藤家)

p.123-1.jpgのサムネール画像

瑞浪市内は江戸期から、買い芝居や人形浄瑠璃などが盛んに上演されてきた地域である。芝居の師匠や浄瑠璃師などの集団もあり、衣裳を専門に扱う家もあった。江戸期の古文書には「濃州明世村の衣裳屋」として登場する。明治期には「かつらや」とも呼ばれていたようだ。貸出しの覚え書などから、遠くは下呂・長野方面にまで貸出しをしていたことがうかがえる。明治期には、安藤末次郎が農家のかたわら衣裳屋を手掛け、その長男の為三郎が後を継いだ。為三郎の妻・すわ子は、昭和21年頃から手伝い始め、夫の死後は本格的に勉強をはじめ、衣裳屋となった。他地区の衣裳屋と大きく異なる点は、衣裳やかつらの貸出しのみを生業とし、演劇集団や振付け指導者を持たないことである。

p.123-2.jpg昭和46年に瑞浪市内の区画整理のため立ち退きを余儀なくされ、衣裳の保管場所がなくなったため、すべての衣裳は小栗勝が引き受けることとなった。その後すわ子は、衣裳の製作・着付けおよび、床山として瑞浪市の無形文化財に指定され、平成元年に没するまで衣裳の仕事に従事した。すわ子の没後、小栗勝の運営する美濃歌舞伎博物館で衣裳管理が行われるようになり、現在にいたっている。古い衣裳はサイズも小さく、使用頻度の高いものほど、劣化してきているため、現在では、古い衣裳を参考にして、新たな衣裳制作も手掛けている。衣裳のうち、江戸期の衣裳数点が瑞浪市の有形民俗文化財にも指定されている。

恵那・東野の衣裳屋(伊藤家)
恵那郡東野村(現恵那市東野)に生まれた伊藤信吉(1881~1941)は、市川栄三郎という名の地廻り役者だった。信吉は巡業先で、廃業した座の衣裳や鬘を買い求めては質、量ともに充実をはかり、衣裳屋を開いた。地元で振付をしながら、貸出業を営なみ、床山は妻のりく(通名 千代)が担当した。その子、伊藤豊(1901~1953)も市川秀鶴という役者で、東濃、木曽、奥三河などへ振付に出向き、芝居の指導をしながら貸出業を営んだ。床山は妻の京が当たった。豊没後は京が跡を継ぎ、娘の青木律子が床山を手伝った。その後は伊藤公博(1932~1995)が跡を継ぎ、公博の没後は妻の美恵子が営んだ。
平成16年の廃業にともない、散逸するのを危惧して、東濃歌舞伎中津川保存会の元会長吉田信助が買い求め、現在は中津川衣裳部として、東濃地方をはじめ木曽、南信州、垂井などの地芝居に貸出している。


可児・帷子の衣裳屋(山形屋)
江戸期には山形屋の前身として武藤荘兵衛がすこし衣裳の貸し出しにかかわっていたようである。廃業した衣裳屋などから譲り受けたりして、明治期に入ると武藤金作が本格的に衣裳屋として始めた。息子の武藤鷹之丞も父・金作と同様、無類の芝居好きで、貸出業のかたわら芝居の集団(美笑連)を結成し、指導や帷子の菅刈地域で祭礼などの折に住民を巻き込んだ上演を行っていた。戦後芝居が低迷した時代には、学校の運動会・学芸会や地域のイベントなどに一部貸出していたようで、昭和35年頃まではほそぼそと貸出しを行っていたようである。その後はお蔵入りをしてしまった。平成10年、当代の武藤辰雄によってすべての衣裳が可児市へ寄付され、現在にいたっている。現在は貸衣裳としての活用はないものの、貴重な資料として教育委員会によって、整理・保管されている。貸出していたものの中に「芝居の鑑札」があり、明治末期に、素人の芝居でも鑑札が必要だった時期には、衣裳ともどもその「鑑札」の貸出しも行われていたようだ。
江戸期の古文書で下呂町久津八幡祭礼記や、越原村(現東白川)祭礼衣裳留の記録に、「山形屋」の名がみえるが、帷子の山形屋と同一か否かは、はっきりとしていない。

各務原の衣裳屋(大谷興行)
大正・昭和前期ごろまで、各務原の芝居は、岐阜市や関市・美濃市などから衣裳を借りており、戦後は武儀郡中之保の市川延一郎から借りるようになった。各務原を中心に芝居の指導にあたっていた関西系の歌舞伎役者だった大谷一門の大谷友之助・広右衛門の兄弟が、大谷興行という組織を作った。近隣の市や町の芝居の指導と衣裳の貸し出しをはじめた。昭和30年ころから広右衛門の妻・白菊も手伝うようになり、衣裳の充実を図った。
広右衛門の没後は白菊が芝居の振付指導・衣裳管理を専門に行っていたが、平成17年、病に倒れたため、衣裳のすべてを美濃歌舞伎博物館が引き受けることとなり、現在にいたっている。衣裳は、比較的新しいものが多いが、古いものの中には、長浜や京都の山車の飾りを思わせるような意匠の刺繍が施された内掛けなども含まれており、東濃の衣裳の趣とは少し異なっている。大人の衣裳もあるが、子供のための衣裳が多く、子供歌舞伎の地域にとっては重要な存在であり、白菊が健在のころには、富山の砺波などへも指導に出掛け、貸出されていたようだ。しばらく手入れが行われていなかった為に、汚れがひどく現在使えるように準備を進めている。


高山の衣裳屋
高山地区には、明治期、営業用の芝居小屋がいくつかあった。江戸期は高山郡代によって統治されていた地域でもあったことから、明治期にはしっかりした興行権を持った芝居小屋の営業がなされていたため、内緒で地歌舞伎が演じられていた郡部の地域とは少し違う道筋を歩んでいたように思われる。しかし、高山の衣裳屋と呼ばれる家があり、明治以降、盛んにおこなわれるようになった地歌舞伎の需要にこたえ、現在にいたっているが、管理者の高齢化がすすむなか、残念ながら、その衣裳は今後の活用の見通しが立っていないばかりか、調査も進んでいないのが現状である。 

以上紹介した他にもまだ、いくつかの集団や組織も存在すると思うが、今後のさらなる調査が望まれるところである。
岐阜県内の芝居上演の特徴は、師匠と呼ばれる指導者がいること、そのほかに化粧を担当する顔師、下座方、浄瑠璃方、衣裳屋のほかに衣裳立て方、着付け方、床山などが、すべてが分業というかたちで存在することである。こうしたシステムは他県ではあまり見られない。それぞれにチェックポイントがあるので、伝統の形が崩れにくく、勝手な方向に変化してゆくことが予防できるシステムでもある。しかし、それぞれの仕事が専門化し職業化しているため、後継者が育ちにくい面もあることは否めない状況下にある。