地域文化研究所

地芝居について

地芝居の音楽

久野壽彦

 
 ここでは、岐阜県内各地に分布する地芝居のうち、その大部分を占める地歌舞伎の音楽を中心に述べることとする。また、筆者の知見の範囲内でこの項を述べるにとどめる。
 初期歌舞伎と音楽 安土桃山から江戸初期、漠然とした言い方をすれば近世初期は、日本史上の大転換期であったが、同時に芸能や音楽の歴史の大転換期でもあった。特に、歌舞伎の誕生と三味線の日本伝来が注目される。両者は、やがて江戸期の芸能や音楽の中核となっていくのである。
 歌舞伎誕生期の音楽に関しては、近世初期における京の都の風景、あるいは京の全体像に様々な人々が活動する姿を屏風や扇面に描き込んだ洛中洛外図等の風俗描写絵画を参考にしながら述べる。
 先ず、歌舞伎誕生の象徴的人物として、出雲の阿国について述べよう。史料初出は慶長8年(1603)で、彼女を中心とする芸能集団が演ずる念仏踊や小歌踊と小演劇は、京の人々の心を強く惹きつけたようである。風俗画の中の一つ「阿国歌舞伎図」(山本家)では、彼女の芸能集団が能舞台風の舞台で演技し、多数の客が観ている様が描かれている。囃子を担当している楽器として大小の鼓と太鼓が描かれ、能の囃子同様の楽器編成がみられる。舞台や楽器が能と類似或いは同じであることから、音楽も能や狂言に順じた響きであっただろう。
 次に舞踊音楽であるが、初期歌舞伎の主要な演目であった小歌踊はこの時代大流行し、歌詞集や絵画の史資料が各種残されている。現在も伝承されている風流系民俗芸能や伝統的芸能として狂言中の踊りの歌謡などに、その面影をある程度見ることができよう。例えば、狂言の酒宴の場面などで歌われる小舞謡などがそれにあたる。但し、現在演奏されている歌や謡あるいは囃子の音楽などが、昔通りであるかどうかの確証は得られないし、阿国歌舞伎時代の小歌踊の音楽そのものへと直ちに結び付けることにはかなりの無理があろう。
 京では、阿国歌舞伎に続いて歌舞伎を売り物にする芸能集団が次々登場し、様々な出し物と共に四条河原でそれらが小屋懸けをして(近世初期、四条河原は種々の芸能の興行が集中する地帯となった)大勢の観客を集めた。その様子は、「洛中洛外図」(東京国立博物館)や「四条河原図」に描かれている。歌舞伎に関係する画面では、大勢の若い女性達が舞台で円を描くような陣形での群舞(「四条河原図」静嘉堂本)や、演劇が行なわれているらしい場面が描かれている(「歌舞伎図巻」黎明会)。また、舞台後方の囃子方の中に三味線を演奏する人物像が描かれているものがある(「洛中洛外図」東京博物館及び「四条河原図」静嘉堂)。これによって、音楽面で能や狂言とは異なる要素も入り込んでいることが明瞭となる。但し、新顔の三味線が早速取り込まれたとしても、その時点から現在のように歌舞伎での音楽や楽器の主軸となったとは限らない。
 歌舞伎と三味線 中国又は琉球から安土桃山時代に伝来した三味線を当初手にしたのは、琵琶法師や遊女のようであり、有名な「彦根屏風」にそのあり様が描かれている。近代初期における三味線を取り巻く情況が推測できよう。この屏風絵からだけではないが、現在三味線を演奏するのに撥を用いるのは琵琶法師が演奏したからだともいわれている。ただし、琵琶用の撥がそのまま三味線に流用されたかどうかは確定的ではない。また、当時の琵琶法師が関係した音楽は、三味線組歌、地歌、筝曲などで、歌舞伎音楽とはやや隔たりがある。
 歌舞伎における音楽という点からみて重要なのは、「浄瑠璃」という語り物と三味線との結合である。当初は物語を単純に語る話芸から後には旋律的な節が加わった芸能へと変化し、三味線はその伴奏楽器として用いられたようである。しかも江戸初期の頃、当時の浄瑠璃は既に人形芝居と結びついた形で演ぜられており、それは現在の大阪における国立文楽劇場で上演されているような人形浄瑠璃(通称「文楽」)という芸能の母胎となるものであった。
 17世紀後半、大阪で竹本義太夫が浄瑠璃の語り手として活躍し、そこから「義太夫節」という呼称が生まれた。さらに、彼と近松門左衛門との出会いは、人形浄瑠璃だけに留まらず、日本の演劇全体の急展開へと繋がっていく。近松により人形浄瑠璃は内容的にも充実した戯曲作品となり、人々の人気を集めた。歌舞伎もその素晴らしさを直ちに導入し、それによって人形浄瑠璃の音楽である義太夫節は、歌舞伎の音楽としても必須のものとなったのである。
 18世紀初頭、江戸で宮古路豊後掾が名声を博し、やがてその芸風は「豊後節」と称されるようになった。その系列として誕生した「常磐津節」・「富本節」・「清元節」(現在、「常磐津」・「富本」・「清元」と呼ばれる)などは、歌舞伎における音楽として義太夫節と共に重要な地位を占めるようになった。
 日本に渡来した三味線は、種々の新興音楽に対応しその表現力を豊かにすべく、それぞれのジャンルに合わせて手が加えられ、多様な楽器となった。楽器のこうした改変や多様化は、日本人特有の感性に基づくともいえよう。三味線は、太棹・中棹・細棹と大きく三種に分かれ、歌舞伎の音楽で言えば太棹は義太夫節、中棹は豊後節系、細棹は長唄に用いられる。これら三種は、三味線としての大小の差だけではなく、さらに撥の大きさや厚み、駒の大きさ、駒の中に入れられる鉛の重さなど細部で微妙な差異がつけられている。この差異が、音色やダイナミズムに繊細で多彩な変化をもたらし、各ジャンルの音楽的効果を強調し、独自の魅力を作り出す源となったのである。
 一般的な公演での舞台と音楽 先ず、歌舞伎舞踊の場合、「出囃子」といって舞台後方に囃し方の壇が設けられ、壇上あるいはそのすぐ手前などで清元あるいは長唄などの唄方と三味線・笛・打楽器奏者などが舞踊音楽を奏し、舞踊が踊られる。舞踊も、一日のプログラム構成上では歌舞伎の重要な演目のひとつである。ただし、岐阜県内の歌舞伎では、通常このジャンルはみられない。
 役者の科白や演技などが中心の演目では、舞台下手の「黒御簾(下座とも)」というスペースから役者の演技を見ながら、囃し方が様々な音楽を奏する。このスペースは、舞台装置の一部のようになっており、客席からは囃し方の姿は直接見えないようになっている。そしてこの音楽は、役者の演技と渾然一体となって舞台を構成していくのである。
 人形浄瑠璃の場合には、舞台上手の横床に義太夫を語る太夫と三味線奏者が座り、演奏する。この形態は、歌舞伎にも大きな関りを持つこととなる。
 歌舞伎の場合も、伴奏音楽として浄瑠璃(義太夫)が採用されているものが多々ある。ただし、人形芝居と歌舞伎では舞台の形態が全く異なることや、歌舞伎では役者の科白や所作を目立たせるということが主体となることなどの理由から、すべてを義太夫と三味線に委ねる人形浄瑠璃の手法はとらなかった。役者同士が交わす科白の間に挟まった演技の説明欄のような部分を、義太夫節で奏することが行なわれた。これを「チョボ」といっている。これを演奏するのは、人形芝居の場合と同じ舞台上手の横床に座す義太夫語りの太夫と三味線奏者である。岐阜県の地歌舞伎では、この形態をとることが多い。
 岐阜県の地歌舞伎音楽 地歌舞伎では、上演中の音楽だけではなく、もっと幅広く色々な音が楽しめる。
 まず、祭りの場合には、開始の合図で打ち上げられる花火の大音響に驚かされる。揖斐川町や垂井町の子供歌舞伎では、練り込みが行なわれる。揖斐川町では、練り込み独特の囃子も奏される。役者に扮した子供達を中心にした行列が通りをゆったりと進むと、押しかけた人々から子供たちの可愛らしさに歓声が上がる。これから繰広げられる舞台に思いを馳せ、胸を躍らせるのである。
 舞台は、会場隅々まで通る「柝」(拍子木)の甲高い音で始まる。やがて柝の連打で幕が開く。舞台脇から口上役が「トザイ東西......」と外題・役者名・浄瑠璃語りの太夫名・三味線奏者名などを告げ、芝居が始まる。
 役者は、「ツケ」(拍子木を厚い木の台に打ちつける)の音とともに登場する。ツケは、役者が見得を切るとか何かの所作(例えば床を強く踏む)をする度ごとにタイミングよく打たれ、役者の演技を効果的に高め補う。柝やツケのタイミングは、まさに歌舞伎特有の「間」のよさであり、それは日本の伝統的な間の感覚あるいはリズム感といえるものである。
 ドラマは、音楽としての義太夫と三味線に支えられながら進んでいく。太夫の発音や発声は場面の情況で劇的に変化し、それに三味線も合わせる。義太夫と三味線は、語り物独特のリズムで拍や拍子に合ったり拍や拍子から外れたりで、その場その場の内容に随って自由に変化していく。
 これらの音に、黒御簾の音楽が加わるのである。様々な打楽器(特に太鼓)による情景描写が行なわれ、時には黒御簾の長唄三味線と舞台横の義太夫三味線との掛け合いもある。これらの音楽・音響は歌舞伎の醍醐味であろう。
 科白のリズム感は、子供歌舞伎での語り方に基本がありそうで、丁寧に一語一語発音され、心地よい流れを感じさせる。成人による歌舞伎の場合には、より豊かな演技の追求から、子供歌舞伎の調子とは異なる劇的な表現となる。
 幕は、柝の音とともに閉じられる。
 以上、簡単ではあるが、地歌舞伎と音樂との関係を述べた。地芝居に限らず地域の諸芸能でも同じことだが、単に舞台の演技だけに集中するのではなく、会場全体の様々な音楽・音響に耳を傾けたり、始まる前や終った後の雰囲気といったものも味わったりしていただきたい。地域限定の様々な匂い・味・音・風・空気等を直接体感し、地芝居の楽しさを満喫していただきたい。