地域文化研究所

地芝居について

父と歌舞伎と私

小栗幸江 


 私と歌舞伎との出会いは、確か4・5歳の頃、東京の歌舞伎座で観たものであったと思う。父が母の妹のお見合い場所に歌舞伎座を設定したため、連れて行かれたのだった。劇場という空間と舞台の美しさにうっとりとした時間を過ごしたことを覚えている。記憶に残る断片(子役の男の子が二人出て一人が切腹する)をつなぎ合わせると、出し物は「近江源氏先陣の館」だったようだ。そのとき母方の祖母が「このお話の佐々木高綱は、家のご先祖様なのよ」といったので、その舞台が鮮明に焼きついたのかもしれない。
 私があまりにも一生懸命観ていたからか、父は私を芝居に連れて行くようになった。「学校は休んでもいい。1日ぐらいの遅れはすぐ取り戻せる。良いものは機会を逃さず観に行こう」が口癖だった。若い頃、演劇を志していた父の芝居好きが私に刷り込まれてしまったのだろう。学校大好きの小学生だったが、学校よりも魅力があったのだと思う。
 芝居のほかに美術館や博物館にもよく連れて行かれた。現在、地歌舞伎保存振興の活動や美術館学芸員として美術館・博物館経営を仕事として取り組んでいる自分がいるのも不思議ではない。
 父は戦後、東京へ出て仕事を持っていたが、もともと岐阜県瑞浪市の出身である。若い頃は青年団で歌舞伎をやったことがあり、戦時中、戦地では、あり合わせの材料で衣裳を作って歌舞伎を上演した写真などが残っている。また父方の祖母も村では「歌舞伎上手」として知られていたようだ。昭和45年ごろ故郷岐阜に起業し、瑞浪市に住まいを移した。父は地元の文化、特に歌舞伎が消えてしまっていることを残念に思い、何とか復興しようと立ち上がった。昭和46年には江戸時代から続く衣装屋の歌舞伎衣裳を引き取り、翌47年には美濃歌舞伎保存会を立ち上げた。一人娘の私は当然の成り行きで手伝うようになったのである。昭和50年には古い芝居小屋の移築再建の話があり、翌51年には二つの芝居小屋を合体した形で「相生座」を再建し、柿茸落し公演に市川猿之助の蝋燭芝居を実現させた。平成11年、父は思い半ばでこの世を去った。後を託された私は、沢山の人の力添えをいただき『美濃の地歌舞伎』を父の名前で出版、他市への地歌舞伎講座、歌舞伎関係資料調査、平成13年に子供歌舞伎教室の立ち上げ、平成18年には中村勘三郎襲名披露公演、19年には市川段四郎・亀次郎公演、および、各務原の芝居衣裳の引き取り、20年には人間国宝・吉田簔助文楽公演を開催した。考えてみると父と同じことをしている自分がいるのである。
 地歌舞伎にかかわるようになって今年で38年になる。役者として女役も男役も主役も脇役も色々な役をやらせてもらった。何物にも変えがたい体験をしてきたと思う。今、私は次の世代への橋渡し役として、改めて地歌舞伎にかかわることの難しさと重大さを噛み締めている。岐阜県内の地歌舞伎は、他県と違い、歌舞伎の師匠さんという大きな存在があり、江戸期の匂いのする地歌舞伎がしっかりと守られている。歌舞伎の原点とも言うべき地歌舞伎の形を失うことなく次の世代へ引き継いでいってほしいと思う。保存会という存在は、ただ芝居がしたいからするという集団であってはならないと思うからである。芝居のためには多くの人の手が必要である。浄瑠璃方・三味線方・顔師・床山・着付け・大道具小道具方、どれ一つ欠けてもいけないのである。三味線・浄瑠璃・下座・床山など、これから学ばなければいけないこともまだまだ沢山ある。死ぬまで勉強である。
 子供たちの指導も大きな仕事である。一年を通じたプログラムで、芝居上演から化粧・三味線・太鼓・浄瑠璃、もちろん太棹も体験し発表する。普段では体験することのできない新しい取り組みを通じ、子供たちは一まわりも二まわりも大きくなる。小学生・中学生の時期に芝居にかかわった子供たちは、きっと、地歌舞伎を支える存在になってくれると信じている。そして、私のような芝居馬鹿を育てるのも私の使命かもしれない。