地域文化研究所

地芝居について

地芝居に生きる人々

持田宗周

 
 江戸時代末期より明治10年頃に完成された村国座は、老朽化を懸念され、平成18年11月から「平成の大修理」として本格的な修理工事に入った。平成21年の春に、先人たちの建築技術を生かした新しい姿でオープンする。この改修工事には多くの見識者の知も結集された。人々の意見の中には、村国座への思いが深く、もっと多くの人に知って貰いたい。世界のアーティストにも舞台に立って欲しい。多くの人に触れられてこそと、広い視点で問いかける声もある。
 現在「村国座」は「子供歌舞伎」と「新舞踊」を奉納する。祭礼の日には、芝居小屋の正面の大戸は取り払われて、小屋外の人は杉丸太の手すりにもたれて観る。舞台上の芸能が直接神へ奉納される形だ。勿論芝居小屋内は一階平間、二階席共に桝席になっていて満員の客で埋まる。舞台の美術は絵師、野村龍峰さんが担当する。若い頃、名古屋の大手劇場の大道具、小道具製作会社に入り、早朝から深夜まで働き、寝る暇をさいて勘亭流の芝居文字も体得した。映画の絵看板も描いてきた。定年後はふるさとの地芝居にかかわりたいと強く思った。舞台装置やポスター、「公演記録」も絵筆で「絵記録」にした。氏の謙虚な話しぶりや姿勢の良さは、青春時代の修業の成果でもあろう。
 「相生座」は、ゴルフ場の敷地に在る。小栗克介さん(本名勝、故人)は、故郷を離れるにあたって意を決していた。仕事場のない山村では若者たちが離れていく。上京して成功者となり財を築いた時、ゴルフ場の建設を考えた。同時に衰退していた「地歌舞伎」の再生に挑み、ゴルフ場で働く人々に地歌舞伎を指導した。当時従業員の二人の古老(80歳代)は、小栗氏に感謝する。「相生座を解体してここに移す時もこの集落の者だけでやった。昔の大工の技術を学びとれたから、皆、自分達の家は協力し合って建てることが出来た。」
 その小栗克介氏の長女が、小栗幸江さんだ。岐阜新聞に地歌舞伎を連載していた父が病魔に倒れた。病床で父は頼んだ。「自分の眼で確かめ、自分の原稿で地歌舞伎をまとめよ。わしの原稿は一切使うな。」小栗幸江さんの地歌舞伎への行動はこの日から始まった。後に『美濃の地歌舞伎』となる本だ。著者名に父の名をあてた時、幸江さんは体に、父の全てを感じたという。平成4年に「ミュージアム・中仙道」をオープンさせた。地歌舞伎の衣裳、小道具、かつらなどが流出していることを憂えたからだ。集められた衣裳などは、専門技術者によって手入れされる。県内各地の地歌舞伎公演には、協力を惜しまない。近年は、松本団升師の芸を継ぐ松本団女師と共に、指導者としても活躍する。夫君、小栗栄輝氏は、小栗幸江氏を支える強力な理解者である。春秋二回の公演には、地元老人達への配慮を欠かさない。
 下呂市門和佐にある白雲座は、白山神社の神殿に続く石段の下に位置している。150戸程の小集落だが、文化的遺産が確認され、人々の和を高めた。芝居小屋の二階の壁に一人の古老の写真が飾られている。細江貞六さん(享年95歳)だ。中興の祖として地芝居に関る人々の尊崇の念を今日に伝えている。当時、地元にあった芝居小屋は物置倉庫となっていて、地元からは解体の声が上がっていた。「白亜の公民館」建設を良しとする流れがあった。買い手業者も決まり解体直前に細江貞六氏が立ち上った。「壊すな。昔の人達が、村人総出で、巨木をかつぎ上げ、芝居小屋を建ててくれた。地歌舞伎は神様に納めるものだ。先人の志を受け継いでこそ真の奉納ではないか。」と、地元への説得はもとより、近隣の人々、芝居仲間へも働きかけた。一方で、地歌舞伎を知らない若者達を集めて歌舞伎を指導した。芝居小屋は守られ、青少年が引き継いだ。
 氏の没後の今日、四代目、五代目の子供たちが舞台を踏んでいる。貞六氏の長男で父を見守ってきた細江達一さんは現在90歳。下呂温泉合掌村で草鞋作りの実演をしながら、昔を語る。その弟、細江学さんは83歳。父、貞六氏より厳しい稽古を受けてきた。後年、歌舞伎保存会長として18年間、亡父の志を土地に根付かせた。その学さんの教え子が下呂望川館料理長として活躍する今井修さん(54歳)だ。学さんの稽古の厳しさを語る。父母から、一升瓶持って学さんに習って来いと言われた。稽古から帰ると待ち構えていた父母からダメ出しもあったという。細江和彦氏は貞六氏の孫である。血統の期待を裏切らない名演技は白雲座歌舞伎の心柱である。貞六氏から直接教えを受けた一人に細江忠三さん(79歳)がいる。演技に加えて絵師として貴重な存在だ。安江文一さん(74歳)は、地歌舞伎はもとより郷土の伝承に通じ地元の生き字引的存在。細江茂昭さんは何よりも門和佐が好きだ。情熱的な語り口には門和佐文化の誇りが溢れ出る。現保存会長の今井敏明さんは細江学氏から引継いで貞六氏の志を今に伝えようと女形でも活躍する。桂川幸雄さん、今井栄伸さん共に演技巧者である。医学博士熊崎平蔵・徹三氏兄弟が困難な時代に寄せてくれた支援を、門和佐の人達は忘れていない。
 下呂市御●野に在る鳳凰座は、文政10年(1827)に拝殿型舞台から劇場型に変え移築した。舞台裏板壁の落書きも古さを証明している。特徴は二階桟敷席が、階段状の升席となっていて舞台が見易い。鳳凰座の創造精神は毅然としていて、上演中は客席からのおひねりを禁じている。保存会長であり演技巧者である曽我軍二さんは「おひねりは有難いが、その一瞬に、演技者の緊張がとけて、済んでしまうんです。先輩たちが伝えてきた芝居作りの真剣さは守っていきたいですね。」昔の稽古の厳しさを語る人に、鎌倉勝敏さん(84歳)がいる。「24歳の頃、父からそんな声ではダメだ。声を張れ!」と言われ、橋の下で川面に向かって叫んでいたら喉から血が出て声が出なくなった。「それを越したら今のような太い声になった。」"寺子屋"の松王丸や玄藩の演技を迫力十分に見せてくれた。その相手役に、熊崎亮太郎さん(82歳)がいる。女形もこなし、昨年は、親子孫曽孫4代揃って舞台に立った。進藤征幸さん(67歳)はスポーツ万能。二枚目、敵役と演技巧者だ。渡辺展さん(39歳)は伝承教育で古川順一氏(豊澤順一郎師)より手ほどきを受け、太棹三味線の魅力に取り惹かれた。舞台で活躍する期待の中堅である。 
 高雄歌舞伎は、郡上市市島に在る高雄神社に奉納する地歌舞伎だが「芝居小屋」を持たない。神社の拝殿には回り舞台も作られているのに永く使われていない。昔は松の木から松の木にワイヤーを張って宙乗りもやったという。近年は、「口明方小学校」の体育館が会場だ。内ヶ島憲一さん(66歳)は、保存会会長を勤めながら情熱的に演技指導にあたる。高雄歌舞伎が今日あるのは、祖父内ヶ島松次郎さん(故人)の努力にあるという。真夏から部屋の襖を締め切り、集めてきた浄瑠璃の床本を歌舞伎の本に脚色化していったという。この情熱が、近在の人々を奮い立たせたと、内ヶ島憲一さんは言う。「永い間地歌舞伎の指導に、松本団升さんや、市川福升さんなど優れた人が来てくれましたが、保存会が人的にも財政的にも窮地に陥ち入った時、自分達の力だけでやってみようということになった。それまでに教わったことをみんなが思い出して何とか形にこぎつけた。三味線や浄瑠璃教室も開いて地元の人の参加を呼びかけた。今は浄瑠璃や三味線はもとより下座の三味線も主婦や中学生で出来るようになった。昨年は外国人の英語教師も出演して英語のアドリブが客席に大受けしていた。」河上栄吉さん(81歳)と和田良雄さん(64歳)は絶妙のコンビの裏方だ。河上さんは仏像彫刻や描画が好きだ。大道具の制作を頼まれてからは旅巡業の芝居をみたり、名古屋の大歌舞伎を観て学んだ。材料には建築資材の梱包用紙をロールで買い取り、神社の拝殿や境内に広げて描いた。その姿勢をみて協力に加わったのが建具屋を本職とする和田良雄さんだ。きめ細かい作業や屋体構造は専門職そのものだ。寡黙な二人は、以心伝心。「私がしてほしいことはちゃんとわかってくれている。」河上さんの信頼は厚い。
 現在、中津川市には、「東濃歌舞伎中津川」「常盤座歌舞伎」「蛭川歌舞伎」「加子母歌舞伎」「安岐歌舞伎」「坂下歌舞伎」「付知歌舞伎」と7つの保存会が活動している。明治期建築の「明治座」「常盤座」、昭和24年建築の「蛙子座」が活動の場であるが、平成12年に建立された「東美濃ふれあいセンター」では近隣16の保存会の大会が開催される。毎年夫々の地域で定期公演が行われている。
 吉田茂美さん(58歳)は幼少期より祖母の手ほどきで地歌舞伎に触れたが、近在の中川とも画伯に可愛がられて「人形浄瑠璃」や「歌舞伎」の奥深さを教えられた。高校生の頃、一座に加わって巡業をしたり、多くの人に触れて芝居作りに奔走した。後年、宿願だった東美濃ふれあいセンターに歌舞伎ホールが建てられたとき、氏の思いと技術が生かされた。「何故、歌舞伎ホールに限定したのか」と問われて、吉田さんは「回り舞台や花道も含め歌舞伎小屋の構造は、西欧より100年以上も早く日本の歌舞伎人が作ったものです。こんな凄い構造をどうしてあなた方現代演劇の人達は活かそうと考えないのですか。」と逆襲したという。三代目中村津多七師・高女師の芸を継ぐ吉田さんは病を克服して、地歌舞伎の指導に忙しい。
 出会った人達に共通するのは、困難な状況を切り拓いて、結果を次の世代へ引き継いだ人であることだ。山間を縫って流れる清流のように、寡黙だが動きを止めない美濃人の深い心にふれた感慨が私を熱くして止まない。