地域文化研究所

地芝居について

文楽の伝承-後世へ伝えよう、人形浄瑠璃の心と技-

伊藤昭三


(1)父親の影響と演劇
 私の故郷は恵那である。春と秋の祭には地芝居が上演され、家族ぐるみで観に行った。父は、地元ではなかなかの演技者だった。4年生の頃見た父が演じた寺子屋の源蔵役が目に焼き付いている。菅秀才の首を差出せとの難題を背負って花道から出てくるところから芝居が始まる。地味な衣裳のままの父の姿が瞼に残っている。少年だった私の心に、強いインパクトを残した。それが、私の演劇人生の原点であった。教師としての現職の頃は、学芸会での作品づくりに燃えたものである。指人形を作らせ、人形劇を通して学級づくりに打ち込んだ時代もあった。卒業した教え子たちを集め、人形劇団へちま座をつくり14年間活動を続けた。今もその火種は残っていて、活動は続けられている。

(2)第二の職場「相生座」の小屋番と美濃歌舞伎
 定年で教師の身を退くと、瑞浪市日吉町の地歌舞伎の舞台「相生座」の美濃歌舞伎博物館主事として10年勤め、役者を初めて経験した。ここで、歌舞伎を愛し舞台「相生座」を復元され、衣裳・道具の保存と地歌舞伎の復興に貢献された日吉ハイランド小栗克介社長をはじめ多くの芝居を愛する人たちとめぐり会った。
 役者としての初役は、白波五人男の日本駄右衛門だった。揚げ幕から出るときの緊張は強烈であった。「先生」「校長」「昭ちゃん」というかけ声と、おヒネリの飛び交う中での初演であった。それ以来13役を演じさせていただいたが、その間、2代目松本団升師に手取り足取りの指導を受けた。先生の送り迎えをときどきして、車中団升師から貴重な教えを受けた。

(3)文楽・人形浄瑠璃への道
 平成元年、公職を退職した時、大井文楽の市川広利氏に勧められ、女太夫竹本勝喜代師にめぐりあい、教えを受けることになった。お稽古の演目を問われとっさに「寺子屋」と答えたところ、師は「素人では無理や」と言われた。しかし、私は譲らず、「親父が演じた寺子屋の源蔵に迫ってみたい」と答えた。以後、愛知県足助町に住んでおられた勝喜代師の指導を受けた。

(4)半原操り人形浄瑠璃との出会い-太夫「千昭」として語る
 竹本勝喜代師の指導を受けていたところ、瑞浪市日吉町半原操り人形浄瑠璃の土屋勉保存会長から太功記十段目を語って貰えないか、という話を受けた。他所者を入れなかった半原文楽であり、身が引き締まったが、チャンスとして3か月後の本番に向けて、勝喜代師へ特訓を頼み稽古に打ち込んだ。自分の稽古は、主に自宅の風呂場と運転中の自動車の中でテープを基にして行った。その頃、半原文楽は、語り手も三味線弾きもなくてテープによって演じられていた。
 平成17年、第11回岐阜県文楽・能大会が瑞浪市文化センターで開催された。このとき、地元として半原文楽が体制を整え、「太功記十段目」を上演し、前半は若手の土屋照吾君が語り、後半の「操」の口説きから光秀の大泣きまでの30分を語らせて貰った。これが、私の太夫としての集大成の舞台であった。
 師匠の勝喜代師は亡くなり、竹本千賀龍師・竹本団勇師の指導を受けるようになり、千賀賀師から「千昭」の芸名を貰った。私が使う見台は、小学校時代の同級生藁科睦君(建築業)がケヤキで造てくれたものである。
 出演し幕が降りると、観劇してくれた教え子や知人達が、「先生良かったに」「文楽でも泣けるやね」と感動を伝えてくれた。操り・三味線・語りが一体となって情感豊かに表現した時、文楽独特の感動が伝わるのである。良い舞台は良い仲間によってつくられるものであろう。