地域文化研究所

地芝居について

地芝居の興隆過程と現状

丸山幸太郎


本論としては、次の諸点を概論しよう。
(1)地芝居という呼称        
(2)農村舞台数日本一だったか
(3)濃飛における地芝居の興隆過程  
(4)岐阜県の地芝居保存会の現状


(1)地芝居という呼称
 美濃国可児郡下切村の「八幡神社祭礼記」(『可児市史資料編-古代・中世・近世』)の延宝3年(1675)の記事に、「操御座候、久々利村千村平右衛門様にてあやつり道具借り申候、浄瑠璃は佐々木問答、からくりは月のからくり、狂言は三つ、人形回しは拝殿の南の方で、芝居仕候」とある。その意は、尾張藩附庸千村家から操人形浄瑠璃の道具を借り、浄瑠璃語りを佐々木問答(主水か)に頼み、人形遣遣い衆は「月のからくり」劇団に頼み、拝殿を舞台にして狂言を3つ上演したと見られる。当時は、まだ、人形浄瑠璃が本格的に流布する元禄期以前の能を基にした古浄瑠璃の世界であるが、「芝居」をしたとあることに注目したい。操で狂言3つを上演した、即ち、芝居とは演劇という意である。元禄期以降は「芝居を見る」「芝居をする」「芝居小屋」などという言葉が広がる。
 濃飛の農村において、農民たちが最初に出会った対話劇、ストーリーのある演劇は、能の合間に演じられる狂言であった。能は、謡いにつれて舞をすることが主体であるのに対し、狂言は、ワキ・シテ・ツレ等が登場し対話劇を演じることから、分かりやすい可笑しさがあり、娯楽性がある。それ故、能を基にした浄瑠璃も、狂言風に、口説きを入れて所作をつけるようになったのであろう。濃飛においては、元禄期以降も歌舞伎という呼称はほとんど見られず、狂言か芝居である。狂言あるいは芝居と言いつつ、操や歌舞伎を上演している。それ故、本書では、地元民が演じることから「地」の字をつけるが、地狂言ということは稀であり地芝居とする。地芝居は、対話劇的な地歌舞伎・獅子芝居人形浄瑠璃、それにそれらの源流としての能・狂言を合わせ、総称としよう。


(2)農村舞台数日本一だったか
 昭和30年代著しい衰退傾向にあった地芝居について、昭和42・42年度、竜谷大学の角田一郎博士を中心に演劇研究者らによって、農村舞台の実態調査が実施された(調査結果は『農村舞台の総合的研究』)。それによると、岐阜県は、現存数96、廃絶数88、合計184棟で、兵庫県の234棟、長野県の202棟に次いで多いとされた。しかし、それは実態把握が違うとして、同46年、岐阜県で再調査を実施したところ、第1表のように、合計数264棟と、全国でも最多県と見られるようになった。
 この中で、旧恵那郡地方(中津川市・恵那市・恵那郡町村)は、現存数も廃絶数も最多で85棟という多さであり、全国屈指の地芝居の盛行地であった。


(3)濃飛における地芝居の興隆過程
 現在の地芝居の保存会が設立される背景として、濃飛各地において、どのような地芝居の興隆過程があったであろうか。史料からうかがうことができるのは、近世以降である。近世以降の濃飛の地芝居の興隆過程として、全体として見れば、次のようなステップがあった。
  ① 神事奉納芸としての能・狂言・からくり人形等中心時代(江戸初期)
  ② 先進地から操・狂言を請ける時代(江戸前・中期)
  ③ 地元民で配役し舞台を設けて歌舞伎・操を上演する時代(江戸後期)
  ④ どの町村にも舞台があり地芝居か操を上演する時代(近代)

 ① 神事奉納芸としての能・狂言・獅子舞・からくり人形等中心時代
 関市の春日神社に永和2年(1376)・天正9・同15・慶長2年銘の能・狂言の面61(県指定)が伝存されて、南北朝から大和猿楽の流れを受けたものが春日神社の祭礼時に奉納上演されていたことがうかがわれる。こうした能・狂言の面は、郡上市白鳥町の白山中居神社で6面(室町時代)、揖斐川町小津白山神社で25面(室町~江戸時代)、同町日坂春日神社で21面(室町~江戸時代)などを伝存しており、大和猿楽能の伝播を受け、濃飛各地で上演されていたようである。
 現在も古い猿楽の型を継承して上演している本巣市根尾能郷白山神社の能・狂言は「間狂言間物語」と表題し、「慶長三年三月」と奥書をし、高砂・八島・田村・夷毘沙門を内容とする古台本を伝存している。白山神社の祭礼は、例年4月13日で、能郷の猿楽衆の家16戸が、能方・狂言方・囃子方と、家によって役割が決まっていて世襲して上演してきている。現在、上演されている演目は、次のようである。
 能 :翁・露払・三番叟・高砂・難波・田村・八島・羅生門
狂言:夷毘沙門・塩売山伏・二人大名・謎狂言・烏帽子折・粟田口・鐘引・鎮西八郎
 能郷溝尻家蔵の「天保十三年三月十二日能次第」によれば、現在上演されていない「能:放下僧・百万・紅葉狩・富士太鼓、狂言:愚婿・宝づつ・太刀ばい」が演じられたことが記されており、上演対象となった演目が多かった、と見られる。
 益田郡上呂(下呂市)の久津八幡宮の「正徳二年八月改祭礼日記」では、例年(宝永三年記事が最初)脇狂言として能の羅生門が演じられ、続狂言としてて「景清」「石川五右衛門」「八島」「東山殿子日遊」「蓮華上人」などが年によって交代して演じられた、としている。この羅生門は、祝事を第1とするめでたい狂言であり、例年、神事的に奉納上演されている。但し、久津八幡宮の羅生門は、その配役から能の「大江山」に近いものと見られている。ここにおける狂言は、元禄期に定立する都狂言の上演形式の「三番叟・脇狂言・続狂言」の順序をほぼ踏まえているが、役者は、近在の素人でなく、高山辺から雇った職業人であったようである(『岐阜県史史料編近世八』解説)。
 なお、この宝永3年(1706)の久津八幡宮の狂言を、わが国の地狂言の創始とする説が既に流布している。地元民かどうか吟味がなく、また、伝播の流れや性格も追究されてはいない。ここでは、元禄期以降の浄瑠璃・歌舞伎以前の能・狂言等を基にした古浄瑠璃の世界のものだったとしておこう。若し、地元民が役者になってする狂言の初見を求めるとすれば、濃飛においては、能郷白山神社の能狂言を、先ず検討すべきであろう。
 西濃では、正保5年(1648)、大垣八幡社において「からくり人形芸」のできる13輌のが造られた(『大垣市史通史編』)。西濃各所にひもで引くことで人形が芸をする「からくり人形」が流布していたのは、西濃の中心の城下町大垣で祭礼時にの上で演じられる「からくり人形」の影響であろう。

 ② 先進地から操・狂言を請ける時代(江戸前・中期)
 東海地方で、地芝居の先進地と言えば地方都市名古屋か岐阜である。元禄期以前に尾張名古屋を中心に活動した「和泉屋座」があった、というが、その実態ははっきりしていない。尾張藩領岐阜では、江戸初期早田村向川原東伝寺にでこ(人形)芝居をする芸人が住んでおり、延宝4年(1676)東伝寺の芸頭宅平は伊奈波神社前に芝居小屋を建て操・手芝居等興行するようになった(『岐阜市史通史編近世』)。同じく尾張藩三宅村(岐南町)では、延宝4年に「舞歌舞伎」を上演し、延宝期に操を上演した(『岐南町史通史編』)。
 中濃地方の尾張藩領可児郡今村八幡神社祭礼では、延宝3年(1675)操を請け始め、同郡瀬田村大元宮祭礼では、延宝4年から狂言尽の請けを開始し、貞享元年(1684)からは「踊狂言」を始めている(『可児町史史料編』)。先掲の「八幡神社祭礼記」は、幕府直轄地可児郡下切村のもので、延宝3年から尾張藩附庸千村家から「操」道具を借り、狂言を上演し始めたことを知りうる。この地方における操・踊狂言・狂言尽は、明らかに娯楽性を求めたものであり神事性の強かった能郷などの能・狂言に対し、新しい地芝居の風が吹き始めた。
 東濃地方では、中山道を竹折で分岐し名古屋と結ぶ下街道に沿った土岐郡大島村(現瑞浪市釜戸町)の「安藤家代々覚書」によれば、天和3年(1683)に尾州から相模太夫を呼んで操興行をした後、同じく尾州から吉沢千勝太夫を呼び歌舞伎興行をしている。東濃地方の操・歌舞伎上演の初見記事である。
 岩村藩領の恵那郡諸村では、江戸中期には、操や歌舞伎の一座を呼ぶ請芝居を興行している。恵那郡飯沼村(中津川市阿木)の「宮地藤四郎日記」によれば、明和3年(1766)8月、土岐郡釜戸村で大島操を見物し、翌4年4月には、阿木村の芝居を見たのち、その芝居一座(七人芸)を村の兵右衛門家で上演させ、見物したのを皮切りに、請芝居興行をするようになる。
 西濃地方では、享保2年(1717)、池田郡八幡村で御法度の「芝居」を興行したということで村役人が「詫び状」(岐阜大学蔵竹中文書)を書いており、同19年に大垣藩の「座右秘鑑」に「他領在々芝居見物禁止」の記事があり、芝居即ち歌舞伎が既に上演されていたと見られるが、請芝居の形態であったであろう。


 ③ 地元民で配役し舞台を設置し操・歌舞伎を上演する時代(江戸後期~)
 濃飛において、娯楽性を求めた操・歌舞伎が最も早く上演され始めたのは、名古屋に近く尾張藩領が広がっている中濃地方の可児郡地方や長良川と木曽川に挟まれた厚見郡岐阜や羽栗郡地方であった。それらの地方では、特に農村において地元民が配役して上演するようになるのは、可児郡瀬田村の「大元宮神祭記」貞享元年(1684)記事に、「踊狂言を仕り、祭始申候、別に大元山にて木を伐出し、踊り場の道具仕候」とあり、舞歌舞伎を上演、舞台道具を大元宮山で木材を伐り出して造っていることから、村民が舞台の背景や道具を造り、村民出演で上演していた気配が感じられる。元禄三年(1690)、同村では、さらに、女方の着る衣裳4人前、具足大8人前を拵えている。先記の下切村では、延宝3年から操上演をしており、享保19年(1734)に、村民配役の狂言(歌舞伎)を始めている。同郡今村では、延宝2年から操興行を続行し、踊り(舞歌舞伎か)もしていたが、享保11年(1726)に常設舞台を造り、操1段、狂言(歌舞伎)を毎年のように上演するようになる。元文元年(1736)から師匠を頼んでおり、地元民配役の歌舞伎即ち地芝居上演であったことは明白である。
 東濃地方の先記の恵那郡飯沼村では、安永6年(1777)に神社の森に芝居小屋を造って、「矢口の渡し」などを上演しているが、操・狂言(歌舞伎)を稽古して上演する即ち地芝居化するのは、寛政3年(1791)からである。
 西濃では、安永6年(1777)、不破郡表佐村八幡宮祭礼で、地元民による芝居が上演されており、寛政期には、垂井町の曳上で演じられる子供歌舞伎で青年が子供の稽古の世話をしている(『岐阜県史史料編近世八』)。
 飛騨地方においては、文化2年(1805)、益田郡乗政八幡宮(下呂市)で舞台が造られたのが、農村舞台設置の初見である。地元民配役の歌舞伎では、吉城郡船津町村で、文化7年(1810)銘以降の歌舞伎の台本が複数発見されており、飛騨においても、江戸後末期では、地芝居が広がっていたことがうかがわれる。


 ④ どの町村にも舞台があり地芝居か操を上演する時代(近代)
 地芝居の普及が遅れていた郡上郡地方や西濃南部の輪中地帯においても、江戸末期の天保期には、各地で村の若い衆が狂言(歌舞伎)を稽古して上演することになる。
 明治開けて維新政府は、地芝居を旧来の悪習の第1とし、勤労意欲を阻害し風俗を乱すとして、厳重な取締方針で臨んだ。岐阜日日新聞は、明治19年に、「東濃の村技(戯)と西濃の煙火(花火)は、従来美濃の二大痼疾なり」とも評してしている。当局の禁令で抑圧されたが、明治20年代になると、地芝居は東濃・西濃・飛騨を問わず県全域で隆盛するようになり、どの町村にも芝居小屋(舞台)かそれを含めた集会場が設置された。第1表に、岐阜や西濃地方の農村舞台数が入っていないが、明治後期・大正・昭和初期の舞台の存在状況を調査をすれば、その数は倍加するであろう。

 
(4)岐阜県の地芝居保存会の現状
 太平洋戦争時、地芝居は途切れたが、戦後各地で復興した。しかし、昭和30年代に入り村から若者が少なくなり、祭礼時には映画等が広がり、地芝居も舞台も壊滅状態となった。やがて、昭和40年頃から、東濃を中心に地芝居の保存会ができ、現在、表2のような数の保存会がそれぞれ上演活動をしている。
 旧恵那郡地方の中津川市や恵那市で、このように地歌舞伎の保存会が多いのは、地歌舞伎が全滅状態のとき日本舞踊を教えつつ地歌舞伎を伝承していた松本団升師をはじめ、市川秀鶴師・中村津多七師・同高女師など、振付師が居づいていたことによると言えよう。現在は、市川福升師・中村高女師とともに、松本団匠師の娘松本団女師や中村津多七夫妻の弟子吉田茂美師らが、旧恵那・土岐・加茂地方や下呂市の地芝居の振付に飛び回り、地歌舞伎の上演・伝承を支えている。
 地芝居の保存・伝承については、近年、それぞれの保存会が連合して、公演や大会を開催するようになったことに注目しなければならない。それを目指し各保存会が稽古して臨むということで、伝承がなされている。


東濃歌舞伎保存会と美濃歌舞伎保存会
 昭和40年11月、岐阜県議会議員伊藤薫を会長にして、東濃歌舞伎保存会が結成され、記念の第1回記念競演会が、恵那市大井町の東映劇場で、旧恵那郡地域の16団体が出場して行われ、毎年公演会をしてきた。現在、所属しているのは、中津川市の加子母・坂下・常盤座・中津川・安岐・蛭川と、恵那市の東野串原・飯地・山岡・三郷・上矢作・明智・恵那市歌舞伎の14団体である。
 それに対し、昭和47年、瑞浪に相生座という芝居小屋を復元した小栗克介氏が提唱して美濃歌舞伎保存会が結成され、小栗氏経営のゴルフ倶楽部従業員を中心にして、毎年夏と早春に公演を行っている。東濃歌舞伎保存会では、地芝居衣裳・鬘などを保存修理し、貸し出しを行い、東濃や各地の地芝居公演を支えている。


岐阜県文楽・能大会
 平成8年、岐阜県域の文楽保存会と能・狂言保存会が協議して、岐阜県無形民俗文化財伝承事業として岐阜県文楽・能大会が、保存会持ち回りで、毎年会場を変えて開催されるようになった。平成20年には、11月3日(文化の日)、第13回大会が、本巣市市民文化ホールで開催され、本巣市能郷の能・狂言、中津川市の恵那文楽、本巣市の真桑文楽、恵那市の大井文楽が上演した。現在、所属する団体は、大井文楽・半原操り人形浄瑠璃・室原文楽・恵那文楽・真桑文楽・付知町翁舞と能郷能・狂言の8つの保存会である。


岐阜県獅子芝居協議会と公演会
 平成13年に、岐阜県獅子芝居協議会が結成され、その年の11月11日(日)に第1回岐阜県獅子芝居公演が、恵那郡山岡町の農村環境改善センターで開催され、白山比・神社・横道・伏屋・小坂・山之上の5つの獅子舞保存会が出演した。このとき、白山・横道・伏屋・山之上は歌舞伎の一部を、小坂は金蔵獅子と高い山・まむしとりを上演。山之上は、平成18年の公演時までは、朝顔日記-大井川の段-等を上演したが、19年以後出演していない。20年の公演は、岐南町伏屋の獅子舞会館で開催され、下呂市小坂津島神社金蔵獅子保存会が高い 山・まむしとりと金蔵獅子、恵那市岩村町獅子舞保存会の葛の葉・姫の子別れ横道獅子舞保存会がお染久松、伏屋獅子舞保存会が傾城阿波鳴門-巡礼唄の段を上演した。小坂の金蔵獅子は、獅子舞であり、ドラマが展開する歌舞伎の一部を演じるということではないが、ストーリー性があるということで、仲間入りしている。


関市獅子舞保存会
 関・上有知を中心とする旧武儀郡地方の村々では、江戸時代は祭礼に獅子舞を奉納することを習わしにしていた。天保年間、武儀川沿いの八幡村で地歌舞伎を上演した記事が見られるが、広がりを見せるのは、明治以降である。獅子芝居は、日露戦争後から昭和初期にかけて、各村で導入され、盛んとなった。昭和30年代には衰微したが、同43年に関市獅子舞保存会が組織され、同44年には市の無形文化財の指定を受けた。
 獅子舞は、祭礼時、神社で奉納され、獅子芝居は地区の公民館等で余興として上演されてきた。近年、歌舞伎の一部を演じる獅子芝居は、関市文化会館で合同公演するようになった。平成20年10月26日、保存会40周年記念第8回獅子舞大会が開催され、小瀬保存会が朝顔日記、黒屋保存会が神霊矢口の渡し、山田保存会が忠臣蔵七段目、下有知保存会が傾城阿波鳴門(上)、肥田瀬保存会が傾城阿波鳴門(下)を上演した。第8回目ということは、岐阜県獅子芝居協議会の公演と同じであり、関市は、県の協議会には入らないで、市内に多数保存会があるので、市独自に合同公演をすることにしたのである。


本巣市の川内狂言

 本巣市の川内で、春秋狂言公演が催されている。名古屋の和泉流の狂言師とその指導を受けている人たちが、天気の良い日であれば、野外で、美しい自然を背景に、狂言を上演し、地区民や周辺から集まった観客を楽しませている。地元に名手がいて、出演もしている。地元民だけの公演はこれからである。


 以上の他、加茂郡・郡上市・下呂市・垂井町・揖斐川町等で地歌舞伎(子供歌舞伎を含む)が、第1章にあるように、祭礼時に上演されている。しかし、その多くの保存会が、会員の高齢化、後継者不足、資金調達、専属的振付師の病気・死没など、課題を抱えており、伝承・保存に向けて、たいへんな努力とエネルギーが注がれ、ようやく今日を維持しているのが現状である。