地域文化研究所

地芝居について

地芝居に燃えて

吉田茂美

 
 昭和40年(1965)11月23日の朝、中学3年の私は母と人目を気にしながら、路地を小走りに中津川駅へと向い蒸気機関車に乗った。着いた所は二駅となりの大井駅。駅に程近い大井東映劇場は、私が今まで経験したことのない不思議な雰囲気に包まれていた。「東濃地区歌舞伎保存会結成記念 東濃合同大歌舞伎」の熱気が私をゾクゾクさせた。それは、旧恵那郡下を四支部に分け二日間に十六幕を演ずるという、この地方では初めての素人芝居の競演会だった。高校進学を直前に、親子揃って素人芝居を見に行くなど、他人に見つかったら、それこそ何と言われるか、そのような時代でもあった。
 初日の五幕目「絵本太功記 尼ヶ崎の場」。武智十次郎が深手を負いながら戦場から帰って来る場面。ドドン・ジャジャンという陣鐘の音、パテパテパテとツケの音とともに、鳥屋口から現れた十次郎が、花道七三で刀を突いてバッタリと見得をきった。その瞬間、ゾクッと鳥肌がたった。その姿は美しく、金地赤糸の鎧の大袖には、松の小枝が刺さっていた。手傷を負いながらも、戦いながら必死に野山を駆け抜けて来た様子を表現するものだったのだろう。その松の小枝の緑色が何故か眼に焼きついていた。
 家に帰りさっそく絵を描いた。後日、天衣無縫の芝居絵画家・中川とも先生と、この美しさ、この役者の美意識など、真夜中まで地芝居談義が続いた。なんとも小生意気な中学生だったことか。
 この時の役者こそが、二年後に出会う師匠の三代目中村津多七だった。こうして、ズルズルと、地芝居の魅力に引き込まれ、今日に至っている。思えば四十年余ドップリと浸かっているのだ。
 私の初舞台は、昭和43年に大井東映劇場で行われた、先代の「中村津多七・高女追善興行」だった。その後、恵那と中津川の芝居好きが集まって組んだ「恵中劇団」に仲間入りし、この地方を公演して廻った。地芝居は衰退期で、近隣地域には芝居をやりたい人はいても、一幕を上演する人数は集まらず、その人が得意とする役柄で客演するということもあった。
 資金は無い、設備は無い、後継者は無い、観客は無い、行政支援は無い、無い無い尽くしの最悪環境の中にありながらも、それでも芝居がやりたいという一念から、限られた自前資源の中で、自分の求める理想の芝居に近づこうと努力していた時代だった。先輩方は、師匠から習い覚えた型や、傾倒を受けた役者の型など、独自の芸風を身につけた芸達者ばかり、同じ役どころでも、色んな型を見ることができたし、相手役を勤める事により、型の違いを覚える事も出来た。複数の型がぶつかり合い、協調しあって、一幕を創り上げていた。
 また、観客の中には熱烈な地芝居ファンがみえ、その人達は過去の隆盛期を体験した人でもあり眼も肥えていたから、間違いを指摘されたり、激励されたり、薀蓄ある話の中から学ぶことがたくさんあった。短期間ではあったが、この時代に私の地芝居の知識の基礎が出来たといっても過言ではない。
 プロの世界と違って、資源に乏しい地芝居の場合、現在有る物、あるいは手近に制作出来るもので、創り上げるという限界との挑戦でもある。
 衣裳・鬘にしても、衣裳屋が所有する限られたものの中から選定するのだから、この役の許容限度はどの程度という限界は、それを選定する人の造詣の深さと美意識にあると考えている。芝居を知り尽くし、その役を知り尽くし、ここまでは良かろうとする判断力を要するのだ。
 大道具や背景なども同様である。本来ならば、こうあるべきところではあるが、それを調達する事は困難であるから、ここまでの変形ならば許されるであろうという事は多々ある。それを考え仕立てる事にも、ひとつの楽しみがある。
 地芝居は、古くは今より小さな行政区画の中で産土神に奉納されてきた。長年の間には、多くの振付師匠が指導したであろうし、それを受け継ぐ先輩達の色々な型が伝承されてきたと思われる。現在残るある一点のみを見て、これが正しい、これは間違いと言い切る事はむつかしい。執り行う方法にしても、その土地に根付いた方法があるだろうし、同じ地芝居を同じように行っても、土地の気風や特色が現れて当然であり、そこを最も大切にせねばならぬところだとも思っている。その土地々々の風土を大切にし、現代に見合った継承方法で、次代に伝える。過去から未来へ伝承する役を、たまたま受け持っている、現在の我々の判断力が試されている時でもあろうと考えている。
 「貴方は何故、芝居に打ち込んでいますか?」の問いに「芝居が好きだから。」の答えしか出てこない。
 中川とも先生の「その土地の血が騒ぐ。」の言葉に納得する此の頃でもある。