岐阜女子大学附属図書館

『わがひとに与ふる哀歌』論 -そのイメージについて- 赤塚正幸

『わがひとに与ふる哀歌』論 -そのイメージについて-
赤塚正幸

A Study on Ito Shizuo's Wagahito ni Atauru Aika
Masayuki Akatsuka

 伊東静雄の第一詩集である『わがひとに与ふる哀歌』(以後『哀歌』と略す)は昭和十年十月の発行である。この『哀歌』におけることばやイメージは、静雄の他の詩集『夏花』(昭15.3)や『春のいそぎ』(昭18.9)におけるそれらとは相当な違いがある。後者においてことばやイメージが現実とかなり密接に結び付いているのに対して、『哀歌』では、ことばは具体的なある何かを指すことはなく、そのイメージにも現実性を脱落させていると考えられるのである。このことは例えば、その題がそのまま第一詩集名となった、『哀歌』中の絶唱のひとつである「わがひとに与ふる哀歌」(『コギト』昭9.11)を読んでみても知ることができよう。

 

太陽は美しく輝き

あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ

手をかたくくみあはせ

しづかに私たちは歩いて行った

かく誘ふものの何であらうとも

私たちの内の

誘はるる清らかさを私は信ずる

無縁のひとはたとへ

鳥々は常に変らず鳴き

草木の囁きは時をわかたずとするとも

いま私たちは聴く

私たちの意志の姿勢で

それらの無辺な広大の讃歌を

ああ わがひと

輝くこの日光の中に忍びこんでゐる

音なき空虚を

歴然と見わくる目の発明の

何にならう

如かない 人気ない山に上り

切に希はれた太陽をして

殆ど死した湖のー面に遍照さするのに

 

 そこでまず冒頭二行における「太陽」について考えてみると、ここで太陽は互いに相反するふたつの形態として各々に表現されている。「美しく輝」いている太陽と、「美しく輝くことを希」われている、 言い換えるならば美しく輝いてはいない太陽というふたつの形態である。そのように意味的には相反する形態のふたつの太陽が提示されているのであるが、太陽ということばが現実に持っているイメージからの影響もあって、 やはり「美しく輝」く太陽の印象は鮮明である。つまり、一行目において喚起された輝く太陽のイメージは、次の行においてそれと相反する形態の太陽が提示されたとしても、 その残像の呪縛力は強く、そのまま二行目へと移行する。したがってこの冒頭二行はイメージ的には不可分のものと考えられ、 各々に表現された互いに相反する形態のふたつの太陽は同時的に存在する。ということはこの太陽が、現実に存在する太陽をただ単にそのまま写し取ったのではないことを示している。 互いに背反する形態を提示することによって、静雄は、現実には存在しない太陽のイメージを表現したのだと言うこともできる。

 この「わがひとに与ふる哀歌」の中に、『哀歌』におけるひとつの典型として現出する「太陽」のイメージに着目し、かって菅野昭正氏は、 この太陽が「普遍的な、そして裸形の本質」を志向しており、「太陽というものの抽象形態なのだと言っても差しつかえない」と指摘しておられた。 さらにこのことは太陽ということばに限ったことではないとして、次のように敷衍されている。

 花にせよ、木にせよ、外部のものを指示するためにぼくたちに与えられた言葉が、特殊で具体的な花なり木なりに到達することは、 ここではただの一度も起らないのだ。詩人はそうした日常的な機能から言葉を解放し、ものの純粋なイメージだけをそのなかに充填させる。

 確かに「もの」を示すことばが実在の「もの」をイメージさせないことは「太陽」ということばに限ったことではない。

 「わがひとに与ふる哀歌」について言えば、「鳥々」や「草木」が右の例として考えられよう。もちろん、「鳥」が「鳥類、即ち脊椎動物鳥綱に属するものの総称」(『広辞苑』)であり、 「草」が「草本植物の俗称」(同前)であるといったように、ある特定のものを示すことばではなくある概念を示すことばであるからだとも考えられる。 しかし、例えばそこに「雀」や「松」や「菫」といったことばが使われていたとしても、現実と密着したかたちで「雀」や「松」や「菫」をイメージすることは、 この作品の場合意味を持たない。何故なら、「わがひとに与ふる哀歌」において「鳥々」や「草木」は現実における何かある鳥や草木を表現しようとしたのではなく、 「無辺な広大の讃歌」との関連で使われていることばだからである。そういった「讃歌」を唄う「自然」のひとつの例、あるいは譬喩として「鳥々」や「草木」はあるのである。 つまり「鳥々」や「草木」といったことばからイメージされるものは「無辺な広大の讃歌」であり、あるいはそれを唄う「自然」そのものであると言ってよい。

 このようなことは「わがひとに与ふる哀歌」だけでなく、『哀歌』に収録された詩篇の随所に見い出すことができる。 例えば「私は強ひられる-」(「コギト』昭9.2)の「私は強ひられる この目が見る野や/雲や林間に/昔の私の恋人を歩ますることを」や「冷めたい場所で」(『コギト』昭9.12)の「真白い花を私の憩ひに咲かしめよ」等々に現われたことばに対しても、 右のような分析が可能であろう。

 以上のように『哀歌』におけることばは現実的で具体的な特定のものを意味せず、したがってそのイメージは、概念的なもの、 言い換えるならば本質的なもののイメージであると考えられる。そのようなことばによって構築される詩的世界は、現実の再現された感覚や感情の世界ではなく、 理知的な世界と言うことができる。しかしながら、本質的なもののイメージによって成り立つ世界とは実在しない世界、 つまり非在の世界であると言うこともできよう。『哀歌』におけるイメージは作品中にそのような非在の世界を構築する役割を担っていると考えられるのである。

 ところで伊東静雄は、『哀歌』においてそのような非在の世界を構築することが創作の最終目的であったわけではない。 作品における非在の世界は現実における断念の上に成立すると考えられるが、その非在の世界を構成するイメージには、警喩的、 象徴的色彩が濃い。再び「わがひとに与ふる哀歌」においてこのことを考えてみると、冒頭の二行に対して大岡信氏は次のように述べておられる。

太陽の輝きは、存在し、かつ存在しないことによって透体脱落し、あとには言葉のみが残る。しかもその言葉は、論理的に矛盾したことをのべているという事実そのものによって、これまた脱落し、あとにはそのようなニ律背反的精神状態を保ちつつ、
太陽の輝きを希って歩んでゆく意志の純粋な指向性だけが残るのである。

 確かに氏の分析の通り、「わがひとに与ふる哀歌」冒頭二行における「美しく輝」く太陽のイメージには、実は美しく輝く太陽を希う「意志」が裏に込められていると考えられるのである。 それならず、作中における「私たち」は「無辺な広大の讃歌」を「意志の姿勢」で聴くのである。ここにも実は、「無辺な広大の讃歌」を聴こうとする「意志」が透けて見える。つまり、「太陽」や「讃歌」のイメージは、 実はそれらを希う伊東静雄の「意志」を譬喩していると考えられるのである。このことを敷衍するならば『哀歌』における非在の世界を喚起するさまさまなイメージは静雄の「意志」の譬喩、あるいは象徴にほかならないと言うことができよう。

 ではその「意志」とは何か。

 ここで再度前章で引用した「わがひとに与ふる哀歌」を想い浮かべてみよう。一読して気づくことは、この作品におけるイメージの明るさであろう。 それはこの作品にあっては「太陽」のイメージが支配的であることにもよるであろう。しかしその明るさが実は全面的にそうであると背定しうる明るさではないことにも気づく。 例えば「美しく輝」く太陽のイメージにしても、二行目において輝いていない太陽が表現されていることは無視できないし、 「輝くこの日光」の中には「音なき空虚」が「忍びこんでゐる」のである。さらには、「切に希はれた太陽」が「遍照」するのは「殆ど死した湖」の一面なのである。 そのことに注意してみると「美しく輝」く太陽のイメージの明るさには、それと正反対の暗闇が含まれているようである。 言ってみれば「わがひとに与ふる哀歌」に現出するイメージは、「奇妙な明るさ」を持っているのである。ではそれは何に由来するものであろうか。 簡単に言えば、それは、伊東静雄の、生に内在する悲哀に対する深い認識によるものである、と言うことができる。このことを証するに次のふたつの例を掲げうる。 前者は大正十五年七月、酒井安代、百合子宛の書簡、後者は「今年の夏のこと」(『呂』昭9.10)というエツセイからの引用である。

 

(A)ある詩人は、

 ああ島が見える、

 そこからひばりが立ってゐる

 雲雀が立つのは畠のある証拠だ

 はたけのある所には人が住む

 人の住む所には恋があるんだ

 と云ってゐるのを読んだことがありますが、私は又その後の所に、

 そこには又必ず悲劇がある

 とつけ加へたいと思ひます。

 

(B)華やかな思ひ上った歓声の中に、満月に遍照された光景は、南の地方の真昼間のひか

  りかがやく寂寥を、生れながらに知ってゐる人間には、胸をしめっけられるやうな追

  憶である。

 

(A)において、「そこには又必ず悲劇がある」と書き加えたことは、日常的次元での発想によるものであっただろうが、 そこにそう付け加えざるをえなかった精神の動きを、(B)における「真昼間のひかりかがやく寂寥」を「生れながらに知ってゐる」ことと考え合わせるならば、 伊東静雄が、自己の生に内在する悲哀を、というよりもむしろ、生そのものが悲哀であることを深く認識していただろうことは容易に推察しうる。 もちろん、(A)だけでは静雄が「真昼間のひかりかがやく寂寥を、生れながらに知つてゐる」ことを知っていたかどうかは明らかではない。 というより、その書簡が書かれたのは静雄の若い時期(満二十歳)のことであり、まだ詩人としての活動を始めてはいなかったので、 「知ってゐる」ことを自覚してはいなかったであろうと推察される。ただ同じ書簡には、

 

 自分の境遇から、(それが楽しいものにせよ苦しいものにせよ)新しい生命と力とを拾ひあげ得ない人は不幸な人ですね。
あきらめよとは云はない、只その境遇に光をもたらす様に努力し得ない人は不幸です。

 

 といった文も見え、静雄が人間の人生(あるいは生)に対して、深く思慮を巡らしていたことは知ることができるし、 あるいはそれを一般的な問題としてではなく静推自身の境遇から「新しい生命と力とを拾いあげ」るためには、 早晩、「知ってゐる」ことを自覚せざるを得なかったであろう。いずれにしろ、(B)を書いた時点では既に「知ってゐる」ことを知っていたのである。 しかもその時点とは、「わがひとに与ふる哀歌」発表のわずか一ケ月前のことであり、『哀歌』の時期と重なるのである。

 さてそれでは、何故「真昼間のひかりかがやく寂寥」を「生れながらに知ってゐる」ことが、 生に内在する悲哀を認識することになるのかについて述べねばならない。それには「生れながらに」ということばが手懸りになる。 すなわち、静雄は「真昼間のひかりかがやく寂寥」を日常的次元において経験的に知ったというのではなく、 自己の誕生以前に精神の深みにおいて知っていたのである。そこから、静雄自身の存在そのものに内在する「真昼間のひかりかがやく寂寥」すなわち悲哀を、 深く認識していたのだと考えられるのである。あるいはまた、「真昼間のひかりかがやく」太陽のその日光の中に、 かがやきと同時に「寂寥」を感じ取ってしまう静雄の認識の方法があるとも言える。 つまり、自己の生が生としてあるとともにまた悲哀でもあるもそのように静雄には認識されていたのではなかったか。 つまりは、自己存在が全きものとして存在しえないことの深い認識がそこにあると考えられるのである。

 さらにまた、伊東静雄は、「真昼間のひかりかがやく寂寥」としてそれを統一的、同時的に認識していたが、 それは「真昼間のひかりかがやく」部分が増大すればするほど「ひかりかがやく寂寥」もそれと同時に増大することを示している。 この増加の図式は「生そのものの悲哀」という場合にも当てはまる。すなわち、生に対する認識が深まれば深まる程そこに内在する悲哀に対する認識も深まるのである。

 ところで、詩が、詩人の生の認識によって支えられているのは言うまでもないことであるが、伊東静雄の作品にあってもそれは例外ではない。 しかしながら静雄は自己の生を、「生そのものの悲哀」という形でしか認識しえなかった。しかもそれは存在の根源における深い認識であったと考えられる。 だから静雄が自己の詩において自己の生をうたえばうたうほど、それに比例して生に内在する悲哀も大きくなった。 そのことが実は、「わがひとに与ふる哀歌」をひとつの典型とする『哀歌』中の作品のイメージに「奇妙な明るさ」を持たせていると考えられるのである。 つまりこの明るさは、内に暗さを含んだ明るさ、あるいは、明るく同時に暗いというニ律背反的な明るさなのである。 そのような「奇妙な明るさ」を待ったイメージとは、自己の存在が全きものとしての生の上に成り立っていないことを認識した静雄のイロニーであると考えられるのである。

 以上のことはもちろん「わがひとに与ふる哀歌」一篇のみでなく、『哀歌』所収の作品全てに言えることである。

 

そして死んだ父よ 空中の何処で

噴き上げられる泉の水は

区別された一滴になるのか

 

(「私は強ひられる」)

 

木刑の蔭に眠れる

牧人は深き休息...

太陽の追ふにまかせて

群畜らかの遠き泉に就きぬ

 

(「真昼の休息」)

 

 これらの詩に現われる明るいイメージは、実は「奇妙な明るさ」を持ったイメージであり、それは静雄の「生そのものの悲
哀」に対する認識に裏打ちされている。

 そのことはまた、『哀歌』が「わがひ上に与ふる『哀歌』であり、それが同時に「無辺な広大の『讃歌』」であることをもイロ
ニックに示していると考えられるのである。

 

 そのような「生そのものの悲哀」という認識は自己の生が全きもの、統一的なものではないという認識と言うことができる。その認識はまた存在の不安を生み出す。 そしてそのような存在の不安は『哀歌』の世界においてのみのことではなく、例えば伊東静雄が最初に公的に発表した作品「空の浴槽」(『明暗』昭5.5) にも既に見ることができる。

 

 午前一時の深海のとりとめない水底に坐って、私は、後頭部に酷薄に白塩の溶けゆくを感じてゐる。けれど私はあの東洋の秘呪を唱する行者ではない。 胸奥に例へば驚叫する食肉禽が喉を破りつづけてゐる。然し深海に坐する悲劇はそこにあるのではない。ああ彼が、私の内の食肉禽が、彼の前生の人間であったことを知り抜いてさへゐなかったなら。

 

 難解な作品であるが、ここに表現されているのは存在の不安であると言ってよい。それを「喉を破りつづけてゐる」「私の内の食肉禽」と表現したのである。 この存在の不安は言うまでもなく「生そのものの悲哀」といった。自己の生の不完全さ、不統一性に対する認識のもたらしたものである。 つまり自分の存在を脅やかすものが自分の内に潜んでいるとの認識である。このことはまた第二詩集『夏花』中の「八月の石にすがりて」 (『文芸懇話会』昭11.9)にも見い出される。

 

八月の石にすがりて

さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる。

 

わが運命ぞ知りしのち・

たれかよくこの烈しき

夏の陽光のなかに生きむ。

 

運命? さなり、

ああわれら自ら孤寂なる発光体なり!

白き外部世界なり。

 

(三、四連略)

 

 すなわち、「自己を孤立した主体としてとらえ、同時にそれを、主体の消滅し去ったのち収荒涼たる外部世界としてとらえるというこの不条理な認識形式」は、 「運命」と書いていることからも知れるように、結局はそのような認識をしかもたらさない静雄自身の不完全な生が根底にあると考えられるのである。 そのことはこの作品を論ずる際によく引用される昭和十一年四月十三日付の池田勉宛の書簡にさらにはっきりと記されている。

 

シルス・マリア

私はここに坐り、待ってゐる、待ってゐる-然し何といふあてもなく)

善と悪の彼方、或は光をたのしみ

或はかげをたのしみ、ただ三昧

ただ海、ただ真昼、ただ窮極もなき時

 

と、忽ち、妹よ一つのものは二つとなった

そして超人が私のかたへを歩みすぎる・・・・・・

 
(原文略)

 

(略) この詩はおそろしい詰ぢやありませんか。一つのものが二つになった・・私もこの頃この分離の幻想を如実に感じてを
るのです。そしてその分散のために白昼の電光を待ってをるのです。

 

 「シルス・マリア」はニイチェの詩である。それを静雄は訳出して右のような感想を付したのである。その中で静雄は「分離の幻想」を感じていると書いている。 それが「八月の石にすがりて」 の第二連に結実したと考えられるが、実はこの「分離の幻想」は「この頃」になって初めて感じられたものではなく、 早く「空の浴槽」から『哀歌』においても、形を変えて静雄を脅やかしていたのではなかったか。「生そのものの悲哀」といった根源的認識からくる存在の不安としてである。

 ということで、言ってみれば静雄の作品にはそのような存在の不安が大きなモチーフとして流れていると解することができる。

 以後のことは省略するが、少なくとも「八月の石にすがりて」を書いた時点まではそのことが言えると考えられるのである。 しかしながらそれはモチーフではあってもテーマではない。

 そこで問題となってくるのが第一章末尾で疑問のままに残しておいた、イメージの裏に透けてみえる「意志」とは何か、ということである。 それは言うまでもないことであるが、「わがひとに与ふる哀歌」においては、「切に希はれた」「美しく輝」く「太陽」の下で「鳥々」や「草木」とともに自然と一体化し「無辺な広大の讃歌」を唄おうとする「意志」である。 それは「曠野の歌(『コギト』昭10.4)では「わが痛き夢」を「休らは」しうる世界への「意志」であり、 さらには「帰郷者」(『コギト』昭9.4)における「限りなく美し」い「自然」に包まれた「美しい故郷」で、美しい「住民」として生きることへの「意志」なのである。 つまりは、「生そのものの悲哀」によって、分裂し揺れ動く不安な自己存在を克服し、唯一絶対的な自己の成就を願ったと言うことができよう。 伊東静雄はそのことを、例えば「けれど私はあの東洋の秘呪を唱する行者ではない」(「空の浴槽」)と書くように、 ある絶対的なものに対する帰依といった形で行うのではなく、「無辺な広大の讃歌」を自己の「意志の姿勢」で聴くといった自分自身の「意志」によって成就しようとしたと考えられるのである。 そういった「意志」による自己克服と唯一絶対的な自己の成就こそが『哀歌』における最大のテーマであり、伊東静雄の詩作もそれを中心に据えてなされていると考えられるのである。 そしてそのことが、『哀歌』収録の作品に、比類のないストイックな精神性を与えていると私は考えるのである。

 

 それでは伊東静雄は「意志」による自己の克服、あるいは唯一絶対的な自己を成就しえたかというと答えは否である。 そのような自己の生の根源へと帰りつこうとする願いは、しょせんは「痛き夢」であり、永遠に解き続けねばならない「空しい宿題」(「帰郷者」)であった。 このことについて「わがひとに与ふる哀歌」を今一度検討してみよう。

 「意志の姿勢」において「無辺な広大の讃歌」を聴こうとする「私たち」の歩みの行きついたところは「人気ない山」であつた。 この言わば生の極北へ行きついた「私たち」がそこで見たものは、「切に希はれた太陽」が照らす「殆ど死した湖」であった。 ということは、「意志」によって「生そのものの悲哀」を克服し、全的な統一的な「生」を目指して生の極北に辿りついても、 結局のところ「生そのものの悲哀」は越えられず、その先に「死」の世界を現出させたにすぎなかったと言うことである。

 このことは実は詩的世界における思念のドラマとして表現されているというわけではなく、詩的世界を形作るイメージそのものに現われていると考えることができる。 「太陽」「しづかに私たちは歩いて行った」「意志の姿勢」「広大の讃歌」「人気ない山」これらのことばが喚気するイメージには、 静雄の「意志」が透けて見えるのであるが、それは譬喩的象徴的意味においてであって、イメージ自体は末尾三行に現出する「死」のイメージの方へといっさんに走って行くと考えられるのである。 つまり「わがひとに与ふる哀歌」におけるイメージは「死」への指向性を持っていると思われるのである。 というばかりではなく、実に『哀歌』 におけるイメージがことごとく「死」への指向性を持っていると考えても良いのである。

 

日光はいやに透明に

おれの行く田舎道のうへにふる

そして 自然がぐるりに

おれにてんで見覚えの無いのはなぜだらう

 

死んだ女はあっちで

ずっとおれより賑やかなのだ

でないとおれの胸がこんなに

真鍮の籠のやうなのはなぜだらう

 

其れで遊んだことのない

おれの玩具の単調な音がする

そして おれの冒険ののち

名前ない体験のなり止まぬのはなぜだらう

(「田舎道にて」昭10.2『コギト』)

 

「いやに透明」な「日光」、「おれの行く田舎道」、「てんで見覚えの無い」「自然」、「真鍮の籠」、「其れで遊んだことのな
い、おれの玩具の単調な音」、「名前ない体験」、こういったどのことばを抜き出してみても、そのイメージには「死」への
指向性が見い出される。

あるいは、

 

私が愛し

そのため私につらいひとに

太陽が幸福にする

未知の野の彼方を信ぜしめよ

そして

真白い花を私の憩ひに咲かしめよ

昔のひとの堪へ難く

望郷の歌であゆみすぎた

荒々しい冷めたいこの岩石の

場所にこそ

(「冷めたい場所で」昭9.12『コギト』)

 

 における「未知の野の彼方」のイメージも、結局のところ「死」と結びついていると言えるのである。

 以上のように『哀歌』収録の作品は、窮極的には「死」のイメージを喚起させることとなる。自己の全き生、 根源的な生への遡行が、実は「死」への限りない近接であるというパラドックスは、伊東静雄にとって、詩的世界における唯一絶対的な自己の成就に対する断念とともに、 「死」に対する限りない拒絶を感じさせたことであろう。というよりもむしろ、「曠野の歌」で、「わが死せむ」日は「美しき日」であると書き、 「帰郷者」において「帰郷者」たちが結局のところ「一基の墓」となってしまったことに「慰めいくらか幸福に」されるといった、 「死」に対して相当にイロニックな表現をとることによって、「死」を自己の「生」の側に取り込もうとしていると考えられるのである。 自分のヴィジョンの中へ「死」を組み込もうとしたのだとも言える。それは静雄にとっては苦しい「意識の暗黒部との必死な格闘」(桑原武夫宛昭23.2.13)であったに相違ない。 しかもそれは、自己の生がより根源的な生へと辿りつくことの断念の上に立った、もとより勝てる見込みのない「格闘」であった。 そして静雄は「八月の石にすかりて」で、「雪原に倒れふし、飢ゑにかげりて/青みし狼の目」が見る自己の生が、結局「さち多き蝶」の「息たゆる」ことに辿り着くことを再確認したのち、 自己の存在が「生そのものの悲哀」の上に成立していることを「運命」として受け入れ、急速に『哀歌』の世界から離れてゆくこととなる。 それは「荘漠・脱落」(『夏花」昭15.5『コギト』)であり、「肯定精神」 (蓮田善明宛昭13.12.9)に則った「ネガティヴの、立ちどまりを通さ」ない「生命の讃歌」(大山定一宛昭14.10.19)への方法の変化であった。

 それは言い換えるならば、自己の生の現実をそのままで肯定し、死との調和を願う方向へ自己の歩みを向けたということである。 以上『わがひとに与ふる哀歌』に現出するイメージを中心に述べてみたが、まだまだ論考しなければならないことは多い。

 たとえば、ここでは伊東静雄の発想法についての考察を省略したが、これについては別に論文を用意してある。 また、愛についての観点、故郷ということについても研究しなければと考えている。

 

注1「曠野の歌」昭39・1-2『現代詩手帖』

2「抒情の行方」昭10.11『文学』

3 注2に同じ

 

尚、テキストは『定本伊東静雄全集』(昭46.12)人文書院を使用した。但し旧字体は新字体に改めた。

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